院長ブログ
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2016年03月01日「トイレ文化」

 プロ野球開幕も間近となり、選手達はキャンプ地でのトレーニングに汗を流しています。日本ハムは球団として29年ぶりになる海外キャンプを米国アリゾナ州のピオリアで張りました。この地は米国でも屈指のリゾート地で、種々の快適な施設が整っているにも関わらず、中田翔選手をはじめ多くの選手が不満を漏らしていると伝えられています。その不満の上位が「洗浄器付トイレがない」ことだそうです。

  年末年始にニューヨークを訪れた当院の職員が、かの地のトイレエピソードを話してくれました。彼女曰く、「10年以上前に西海岸を訪れたが、その頃からトイレが進化していないのに驚いた」、「安全・快適が当たり前にある日本、食文化からトイレまでハイレベルな日本はすごい」。

 中国をはじめとしたアジアの旅行客が日本を訪れ、日本製品を大量購入する“爆買い”は昨年の流行語にもなりましたが、最近そうした“モノ”のみならず、医療、芸術、風景、文化など日本の“コト”にも驚きと興味を持ち始めており、その一つがトイレ文化だそうです。例えば空港のトイレ。到着後、入国審査に向かう途中にある女性トイレは混雑しがちですが、床も鏡もピカピカのトイレに利用者はまずびっくりする。さらに、大きな荷物を持ち込みやすいようにとトイレの空間が広めに作られており、カバンを掛けるフックがちょうどよい位置に取り付けられていることにも感心する。最近の上海や北京はトイレ革命がかなり進んで綺麗になったとは言われるものの、日本のトイレと比べたら月とスッポンだということです。

 NHK総合テレビで毎週月曜日午後10時からのドキュメント「プロフェッショナル」は私の好きな番組の1つです。昨年の6月1日に放映された“心を込めて、当たり前の日常を。ビル掃除・新津春子”は特に感動を覚えました。2013年、2014年の2年連続で清潔な空港世界一に選ばれた羽田空港の立役者の1人が彼女です。彼女は「掃除は単に表面の汚れを落とすだけではない。目に見えない部分に気を配ることこそ真骨頂だ」、「掃除は“おもてなし”でないといけない”。心を込めていないといけない。この場所を使う人々に当たり前の日常を届けたい」、「使う人を思いやる“こころ”がないと、本当に気持ちよくその場を使ってもらえない」と話していました。彼女はトイレの手洗い後の温風乾燥機にも心を配ります。1センチ幅の排水溝は手が届きにくく雑菌が繁殖して悪臭を放つようになります。そこで専用ブラシをメーカーと共同で開発し、1センチ幅の排水溝を徹底して清掃しているそうです。

 当院は建築後10年を経ようとしていますが、建物がきれいで清潔だとご来院の方からお褒めの言葉を頂いています。毎朝早くから清掃担当のスタッフが隅から隅まで心を込めて清掃している成果です。なかでもトイレの掃除には気を配っています。以前にもこのブログで書きましたが、武田七郎初代院長の院内清掃への取り組み方、とりわけ汚れだけでなく匂いにまで気を配るトイレ掃除の仕方は、当院の良き伝統だと思っています。現在の建物が設計された十数年前、病院全体に洗浄器付トイレがある状況というのはまだ珍しかったと思います。旧病院時代、試みに洗浄器付トイレを1カ所設置しました。それを利用した整形外科患者さんの「助かった。苦痛なく快適にトイレができた」との感謝の一言が“全館洗浄器付トイレ完備”に繋がりました。現在も季節により便座の温度を調整するなど、使う人を思いやる“こころ”をもってメンテナンスを行っています。

2016年02月01日「箱根駅伝連覇の青山学院監督から私が学んだもの」

 新年恒例の箱根駅伝を楽しみにしている方も多いと思います。学生たちが自分の意地と大学の名誉をかけ、渾身の力を振り絞って走る姿には私も感動を覚えます。今年も昨年に引き続き青山学院大学の圧勝でした。30年近く箱根駅伝に出場さえ出来なかった同大学陸上競技部を最強軍団に引き上げた原晋(はら・すすむ)監督の手腕に、私は多くのものを学びました。

 原監督はチーム育成を振り返り、成功の秘訣を次の3点に集約しています。「創りたい組織に合う人材の獲得」「自立に重きをおいた目標設定」「具体的な数字の宣言と達成する覚悟」です。箱根の“山の神”と言われた神野大地選手をはじめ、“青学四天王”と呼ばれている有力選手も、監督自ら口説きスカウトしました。その人材獲得の哲学は「青山学院の校風にふさわしい、明るく表現力が豊かな人」でした。どんなに能力が高くてもこの信念に合わない人は選ばず、たとえ能力が未知数であっても組織に合うと思った人材を選んだといいます。「ずっと楽しくて、顔、笑っちゃって」「日本中で僕が一番幸せ」といった選手のコメントがそれを証明していると感じました。

 選手たちが自ら目標を立て、考え、試行錯誤を繰り返しながら成長した結果がこのコメントに繋がり、また次のステップへのモチベーションとなったと思います。しかし、“自立”と“独断・専行、独りよがり”は裏表一体です。若い選手たちに対し、監督がこの違いをきちんと指導したからこそ、今日の偉業を成し遂げられたものと思います。

 原さんは12年前監督を引き受けた際、中国電力営業マンという安定した生活を捨て、広島から、退路を断ちました。そして「3年で箱根駅伝出場、5年でシード権、10年で優勝争い」という期限つきの目標を設定したのです。就任3年目の予選会で惨敗し、廃部の危機もあったそうですが、5年目に大会出場、翌年にはシード権獲得、そして昨年、今年と連覇を果たしました。

 原監督の手腕で私が一番見習いたいと思ったのは、「トップとしての覚悟」と「期限を決めた目標を組織に浸透させたこと」です。選手も見る者もワクワクドキドキさせようという、昨年の青山学院のスローガン“ワクワク大作戦”は大変有名になりました。各大学でスローガンは様々ですが、東洋大学の“1秒を削り出せ”、駒澤大学の“原点と結束”に比べると、校風をよく表しており印象的です。結果としてそのスローガンが選手に浸透していたことが証明されました。また原監督は、選手一人ひとりに対しても士気を鼓舞する言葉を呟いたそうです。例えば神野大地選手には「国民的ヒーローになれるぞ!」。それがあったからこそ、彼は今季二度もの疲労骨折という故障を乗り越え、再び山登りの5区で好記録を出すことができたのでしょう。

 ところで、「風が強く吹いている」(三浦しをん著、新潮文庫)は、箱根駅伝を舞台にしたもので私のお気に入りの本の一つです。長年箱根駅伝とは無縁であった寛政大学4年の清瀬灰二(ハイジ)が、有能でありながら挫折し落胆した蔵原走(カケル)を万引き犯としてつかまえることから物語が始まります。長距離競技の経験が全くない登場人物キングやニコチャン、ムサ等運動音痴の学生たちを箱根駅伝出場という目標に向けてまとめ、励まし、皆が人間的にも成長していくストーリーです。興味のある方は一度読んでみて下さい。原監督の苦労の一端を理解する手掛かりになると思います。

2016年01月04日「新年おめでとうございます」

 年頭にあたり、皆さま方に今年の抱負を述べさせていただきます。

 現在、国は地域医療構想(ビジョン)の策定に着手し、それぞれの地域にふさわしい「地域完結型医療」を推進しています。この過程で大幅な病床削減と病床機能の調整が避けられないことが明らかになりました。こうしたなか、私たち・徳島赤十字病院は引き続き高度急性期医療を担い、地域医療支援病院、高度救命救急センター等の各基幹機能の充実を図って参ります。

 さて、当院では冬季のこの時期、ベッドの利用率は限界に近づき重症患者や救急患者の受け入れに支障を来す状況となります。そこで、“入院が必要な方には絶対入院していただく”という「断らない医療」を実践するために、日帰り手術センターを含む新棟の建築計画を推進してきました。今年2月中旬には一般競争入札により施工業者を選定し、来年秋の新棟竣工を目指して3月上旬に建築工事に着手する予定です。この日帰り手術センターが整備できれば、白内障などの眼科手術、カテーテルを使った狭心症の検査や治療等、これまで短期間の入院で行っていたものを日帰りで行うことができ、空床の確保や重症患者・救急患者の受入機能を高めることができます。

 この新棟には他にも病院機能を向上させる役割を持たせています。その一つは新病棟の設置です。今ある病棟の2人部屋を個室に転用し、減少した42床分で増築棟に1病棟を新設します。これにより個室率は60%を超え、患者さんにより快適な療養環境を提供することができます。二つ目はPET新設、アンギオ室や内視鏡室の増加・集約を行い、診断・治療能力の向上を図ります。さらに既存棟の空き部分を利用して、救急外来(ER)のスペース拡大や処置・観察ベッドの増設を行います。さらに三つ目は、スキルスラボをはじめとした研修機能の拡充です。当院のスタッフだけではなく、地域の医師や看護師、学生などにも開放し、徳島県における医療従事者の確保・養成に努めていきます。

 昨年4月から医師、看護師が同乗し、現場で蘇生や治療等を行う本格的なドクター・カーの運用を開始しました。現在まで約9か月間で131件の要請に応えています。なかには脳梗塞のt-PA治療を迅速に行えた例や現場で挿管を行い救命できた交通事故例など、その機能を最大限発揮することができました。

 今年は医師の増員や機動力のより高いラピッドレスポンスカー(医師派遣用自動車)を新たに追加整備する予定です。これにより、救急現場や患者搬送中の救急車により早く医師や看護師を到着させ、「病院前救急診療」を開始することが可能となり、救命率の向上につながることが期待されます。

 2016年も職員一丸となって“断らない医療”を実践し、地域医療機関との連携をより緊密にし、24時間・365日いつでも高度救命が行えるよう病院の充実を図っていきたいと考えています。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

2015年12月01日「気持ちを表す所作・振る舞い」

 当院では毎日多くの会議があります。医師全員が参加する朝のミーティング、診療科カンファレンス、研修医たちとの症例検討会、経営会議、種々の委員会などです。多くの会議は定刻どおり全員が集まって始まります。しかし、なかには会議開始時間が過ぎても”遅れて申し訳ない”というそぶりもなく堂々と入ってくる人がいます。人を待たせたことへの悔悟の情を表すことや人に教えを請う態度について、これまでに学ぶ機会がなかったのかなと首をかしげたくなります。

 「江戸しぐさ」という言葉があります。これは「むかし江戸の人たちが人間関係を円滑にするために築き上げた行動哲学のことである」とされています。歴史的資料が存在せず、偽史であることから、教育に取り入れることについて賛否あることはさておいて、他人を思いやり他人と共生していくにはどういった振る舞いをすべきかを考えるヒントになると思いましたので、いくつか紹介したいと思います。

 「時泥棒」という言葉があり、「時泥棒は10両の罪」といいます。10両を盗むと死刑になった時代です。江戸の人は時間を大切にしなければ相手に迷惑がかかるし、やがて自分も信用を失うことを実感していました。私たちも定刻より5分前、せめて2分前を合言葉にしたいものです。

 「七三の道」とは、大勢の人が歩くところは真ん中を威張って歩かないで道の3割にし、7割は他人に譲って脇を歩きなさいという教えです。江戸は人口100万を超える大都市でした。狭い道を多くの人達が歩き、肩がぶつかり合うほどの混雑ぶりだったようです。そこから相手を思いやる方法として考え出されたものと思います。同じ趣旨に「傘かしげ」があります。雨の日に往来ですれ違う際、お互いの傘を外側に少し傾けちょっとずつ濡れあうことです。私たちも院内を歩くときは、患者さんの邪魔にならないか、また移動しているストレッチャーの妨げにならないかなどに気配りをしています。

 また、「江戸の人は“忙しい”というと額に青筋を立てて怒った」とも書かれていました。忙しいという漢字は、りっしんべん(心)が亡くなったと書きます。つまり心がどこかに行っている状態です。「心がそこにないのにまともなことができるはずがない。あなたのことを思いやる余裕がない」と言っているようなもので、相手が怒るのは当然というわけです。私たちもよく“忙しい”を口実にしますが、それは相手の意見や要求などを拒否することを意味します。どんなに時間や物事に追われていても相手を思いやる余裕を持ちたいものです。

 目は口ほどにものをいいます。人とすれ違うとき、お互いに目であいさつを交わして柔らかくすれ違うことは「会釈のまなざし」と表現されています。いつか見たテレビCMで、会社への道を急ぐ男性が道を譲ってくれた女学生の脇を通り抜ける際に、顔を向け帽子をちょっと取ってニコッと会釈をしている光景を思い出させます。「おあいにく目つき(おわび)」、「お愛想目つき(感謝)」は言葉だけでなく態度で、それも心のこもった表情や目つきで表すことが大事であると教えています。

 日本人が長い年月を経て築き上げた礼儀作法は、日本人としての矜持(きょうじ)の一部を形成する大切な文化です。私たちも先人に見習って他人を思いやり、他人と共生したいものです。

2015年11月02日「心身症の苦しみ」

 長い人生の中にはその人の生き方や考え方を変える大きな出来事があります。私の医師としての考え方が変わったのは、33歳から約1年半にわたって悩み苦しんだある病気がきっかけでした。

 世の中には私と同様、あるいはそれ以上の苦しみを経験した人がいるのだと実感をともなって教えてくれた一冊の文庫本があります。夏樹静子著「腰痛放浪記 椅子がこわい」(新潮文庫)です。著者は1993年から約3年間、原因不明の激しい腰痛とそれに伴う異様な症状や障害のために、自殺を考えるほど悩まされました。有名作家としてのブランドを保つためのストレスによる症状と言われつつ、連載小説や短編の執筆、座談会の出席、文学賞の選考委員と断りきれない仕事に追われていました。

 発病後、近隣の評判の良い医師はもちろんのこと、地元九州大学の整形外科、産婦人科、精神科、神経内科、眼科などを歴訪し、作家仲間が良いという東京都内のあらゆる医療機関を受診します。抗鬱剤、筋弛緩剤、精神安定剤、昇圧剤を大量に服薬する一方、筋力増強のための水中運動や気功、鍼灸(しんきゅう)、カイロプラクティック、祈祷、手翳(てかざ)し治療など“性懲りもなく”効果があると言われる治療法を次から次へと追いかけたと言います。そして、最後にたどり着いたのが心療内科でした。自律訓練療法や絶食療法を受け、自分が心身症であることを受け入れ、一年間の全面休筆を余儀なくされます。その結果、症状は跡形もなく消失したのです。

 私の場合、ある日突然右手の親指が律動的に動き出したことから始まりました。よく見ると親指を動かす母指球筋と呼ばれる筋肉が痙攣しています。カテ-テル検査のやり過ぎで一時的なものだろうと最初はあまり気に留めませんでした。しかし、3日たっても1週間たっても止まりません。「夜寝ているときも動いている」と家族にいわれ不安になりました。真っ先に思い浮かんだのは、研修医時代に自分が担当したことのある筋萎縮性側索硬化症の初期症状“線維束性筋収縮”でした。この病気は、全身の筋肉がやせ衰え数年のうちに死亡します。自分で筋肉に針を刺して筋電図を記録すると、その病気に特徴的な波形が出ます。検査用のハンマーで腱の反射を調べると、その病気と合致した反応でした。奈落の底に落ち込む絶望感に襲われました。それでも自分の思い違いであって欲しいという一縷(いちる)の希望を求め、母校の神経内科を始め、数多くの有名な医師を訪ね歩きました。医師のなかには「自分の筋肉に針を刺すような検査をする者の気が知れん」、「病気の亜型だから進行は遅い」、「様子を見ればそのうちはっきりする」など、不安が増すだけでなく心を傷つけるような言葉が投げつけられました。その間にも筋肉の痙攣は、手足のみならず顔や舌にも及んできました。当時、仕事では多くの困難を仲間と一緒に乗り越え、やっと軌道に乗り始めたカテーテル検査や救急患者の診療など、多忙を極めていました。

 結局、1年半後に他の病気が生じたことで注意がそちらに移ったこと、恐れていた筋肉の痩せが生じなかったことでの安心感もあり、種々の精神的ストレスが筋肉の痙攣という身体症状を引き起こした“心身症”であると徐々に納得することができました。

 この体験は夏樹氏も書いているように「自分が望んでも得られないような貴重な、今から思えばつらく苦しかったけど出会って良かった体験」でした。それまで心因反応を重要視していなかった未熟な私へ神様が与えてくださった実に貴重な贈り物となったのです。

2015年10月01日「シルバー・ウイークの旅」

 「奥の細道」の序文で、松尾芭蕉は「予もいづれの年よりか片雲(へんうん)の風にさそわれて、漂泊の思いやまず」と書いていますが、私も少しまとまった時間が取れると、あちこちの古所、旧跡にふらっと旅をしたくなります。5月の連休は熊野古道に出かけました。今回も急に思い立ち、カンボジアのアンコール遺跡を訪れました。一人旅が幸いしたのか、航空券やホテルの予約が案外簡単にできました。

 カンボジアは今雨季で、空から見渡せる限りの田んぼは畦道を残して水没していました。飛行機から降りた途端に東南アジア独特の水分をたっぷり含んだ暑い風を受け、ここが「亜熱帯のアジア」だと実感しました。

 2日間のアンコール遺跡見学のガイドをしてくれたのは、サムさんという34歳の日焼けしたクメール人の若者でした。外国を旅する際の楽しみの一つは、現地の人と仲良くなり、その国の実生活、考え方や生き方を聞けることです。サムさんも非常に気さくな若者で、遺跡案内の傍ら色々なことを流暢な日本語で話してくれました。カンボジア人の約8割は農村に住み、識字率は約6割で1日働いても収入は2~3ドル程度。6人兄弟の彼は“口減らし”のため、15歳から20歳までの間寺に預けられたそうです。その時、様々な事を学ばなければ働けないと一念発起し、日本語と英語を知人から必死に学んだと言います。日本の歴史や生活についても博学でした。ヒンズー教徒によるアンコール遺跡の仏像破壊についても、明治初期に起こった日本の廃仏毀釈と対比して説明してくれました。彼は6歳になる息子を大学に行かせたいと目を輝かせて言っていました。

 アンコール遺跡は、シェムリアップという町の周辺に点在する大小700もの石造建築物で、9世紀から約600年間続いたアンコール王朝の繁栄を伝えるものです。アンコール・トムのメインゲートの南大門まで100mあまりの橋を渡るのですが、両側の欄干はナーガ(蛇)の胴体を模して作ってあり、その上に数多くの仏像が乗っています。しかし多くはセメント等で補修され、明らかに色が違います。サムさん曰く、「多くの遺跡は19世紀半ばにフランス人によって発見されたが、彼らは価値のあるものは全て本国に持ち帰り、このような雑な修復をしている。それに比し、日本の遺跡救済チームは無償で元の状態に近い補修をしてくれている」と説明してくれました。リップサービスと分かっていても嬉しく、遺跡救済チームを誇らしく思いました。

 遺跡は全て石積みで作られています。1000年も前にこのような大きな石をどのように一部の隙もないほど精密に組み立てたのか、さらにその石に今でも飛び出してきそうな躍動感あふれる物語をどうやって彫刻したのか、サムさんも分からないと言います。どの時代の遺跡もそうですが、命令した人の名前は後世に残り、実際に働かされながら存在さえも忘れられた庶民の労苦はいかがなものであったかと少し胸が痛くなりました。

 今回の旅はベトナム航空を利用しました。中継地ホーチミンの空港職員は、時間に全く無頓着で私語が多く、iPhoneで時間をつぶすといった働きぶりに失望しました。1998年8月にベトナムを旅した際に出会ったガイド、ダン君の夢「ベトナムは経済音痴な軍人や役人のためいつまでたっても経済が上向かない。自分はベトナムを愛しているから社会に出たらなんとかしたい」(わが旅. 日医会誌131(7)2004参照)はまだまだ叶えられていないと残念に思いました。

2015年09月01日「面接官の思い」

 当院では、毎年60人前後の新入職員を採用しています。その採用試験が今年も8月に行われました。筆記試験や小論文もありますが、採用する側・される側双方にとって、何といっても面接が最重要です。より良い人材を得ることが組織の活性化に直接繋がるので、私達面接官にとって“人をみる能力”を試される場でもあります。それだけでなく、若い学生たちと直接やり取りをし、彼らの意見を聴くことができる楽しみの場でもあります。今年の面接の場での雑感です。

 面接の最後に、「昨今たくさんの社会的、政治的、経済的な出来事が起こっていますが、あなたにとって最も印象に残るニュースは何ですか」と聞きました。常日頃、研修医や研修看護師達に対して、「良い医療人になるとともに、社会的、政治的、経済的なことに興味を持ち、成熟した社会人になって欲しい」と話している私ですから、学生たちに対しても、彼らがどの程度そういったことに興味を持っているか知りたかったのです。

 9割以上は、寝屋川で起きた中学1年生の殺人事件、愛媛・八幡浜市の乳児死体遺棄事件といった3面記事として取り上げられるものや高校野球に関するものでした。東京オリンピックのロゴの模倣疑惑を憂う意見も何人かいました。私としては、政治的・経済的なニュース、例えば、若い人達の将来を左右する安全保障関連法案、あるいは世界同時株安などといった問題に興味を持ち、意見を述べて欲しいと内心期待していました。しかし、こうしたことに言及したのはほんの3、4人で、彼らの殆どは一度社会人になり、改めて目的意識をもって大学に再入学した人達でした。

 面接という場の性質上、無難な答えを選択する心理が働いたのかもしれません。しかし、以前行った面接で新聞を購読しているか、あるいは毎日読んでいるかを聞いた際、購読している者は皆無、毎日読んでいる者はほんの数人だったという経験と併せても、学生の社会に対する関心の薄さが垣間見られました。

 また、面接の最初に自己PRをして貰いました。自分の長所、特技などを主張して私たち面接官の採用意欲を掻き立ててもらうことが目的です。かなりの学生が「私の長所は真面目なことです」とか「何ごとにも一生懸命取り組むことです」と訴えました。私個人の意見ですが、就職を決める面接の場において、これは長所として主張すべきものではないと考えています。なぜなら、社会人として働くのであれば、真面目に一生懸命働くことは必要最低限のことだからです。多分、他の人よりもそれが秀でていると言いたかったのだと思います。しかし、そうであれば、具体例をあげるなどして、通常の真面目さや一生懸命さとは違うことを強調せねばなりません。どんな話も相手の心に響かせる努力が必要です。

 当院で働くことによって、どんな素敵な“夢“を叶えることができるか。それを今までの人生での出来事と紡ぎ合わせ、ストーリーとして表現力豊かに話してくれれば満点を差し上げたいと思っています。

2015年08月03日「“あん”雑感」

 先日、樹木希林主演の映画『あん』を観に行きました。新聞の映画評をみて興味を持ったのですが、和菓子党の私には、『あん』という題名も魅力的でした。満開の桜の下、物語は始まります。刑務所暮らしの過去を持つ雇われ店長の千太郎が営むどら焼き屋に、店で働きたいと懇願する体の不自由な老女、徳江が訪ねてきました。彼女の作るどら焼きの“あん”が評判を呼び、店は行列ができるほどの大繁盛。しかし、心ない人達によって、彼女が元ハンセン病患者であったことが伝わり、店は閑古鳥が鳴くようになり、徳江は辞めざるを得なくなります。桜が散り、夜空に満月が現れ、徳江のことが気になった千太郎は彼女の住む療養所を訪ねます。そこで人間の尊厳を奪われても、なお懸命に生きる数々の人生があることを体感します。

 ストーリーにも感動しましたが、徳江が作る“あん”に心をうたれました。小豆をゆっくりゆっくり煮ながら、徳江は愛情をもって豆の声に耳を傾けおしゃべりをします。「寒いところで育ち、冬の風にも耐えてよくここまでやって来たね」。出来上がりの最後に水あめを加えることがコツのようでした(しかし、後日和菓子のプロに聞くと「それは邪道」とのこと)。

 映画を見た後、どら焼きが猛烈に食べたくなりました。頭に浮かんだのは鳴門市にある「ことらや」の“阿波どら”です。店のうたい文句は「手間ひま惜しまず炊き上げた粒餡と皮に、和三盆をたっぷり使った自慢のどら焼き」です。さっそく今回も買い求めました。私は1個で十分ですが、いい大人がどら焼き1個だけを買うのも気が引けたので、いくつか買い、院内のある部署の方々にも食べてもらいました。評判は上々でした。

 “あん”に関する思い出をひとつふたつ。私は学生時代から研修医時代の6年間、山陰の米子市に住んでいました。年末年始を下宿先で過ごしたある年、元旦にいただいたお雑煮は何と“ぜんざい”でした。下宿のおばさんによると、”小豆雑煮”というのだそうです。餅は焼かずに餅とり粉がまぶしてあり、溶けることでとろみがつきます。もちろん具は入っていませんでした。元旦の朝からびっくりしましたが、甘党の私向きの雑煮で、機会があればもう一度食べてみたいものです。

 大福餅も私の大好物の和菓子の一つです。しかし、今流行の果物やカスタードクリームの入った大福はあまり好きではありません。やはり、たっぷりの小豆あんが、きめ細かくつかれた柔らかい餅にふんわりと包まれた伝統的なものが最上です。少し趣は異なりますが、県南部に出かけると、鯖大師の近くの小さなお店で大福餅を買って帰ります。“さばせ大福”と名付けられたあん餅です。そのあん餅は小さい頃によく家で作って貰って食べていたものに似ており、母や祖母を思い出させる懐かしい味がするのです。

 思い出の味は人それぞれですが、皆さんにはどのような“あん”の思い出があるのでしょうか。

2015年07月01日「みなさまの健康と尊厳をお守りします」

 5月17日および24日の両日曜日に開かれた徳島県緩和ケア研修会に参加しました。“緩和ケア”というのは聞きなれない言葉ですが、主にがん患者さんの身体的な痛みだけでなく、精神的、社会的なことを含めた全ての問題に対して、きちんと理解し対応しようというものです。患者さんのみならずその家族に対しても取り組むことはもちろんのことです。私は循環器内科医ですが、末期がん患者さんと同様に命が限られた心不全患者さんを多数診ており、適切な対処ができているか不安でした。こうした意味から今回の研修会で学ぼうと思いました。

 緩和ケアにおいて大切なことは下記の3点です。

  1. 苦痛(つらさ)を和らげる
  2. 患者さんの気がかりに気づく
  3. 様々な場面で問題を解決する体制がある

患者さんにとって“苦痛(つらさ)”とは体の痛みはもちろんですが、体のだるさ、息苦しさ、食欲がないこと、ムカムカすることなど多岐にわたります。“気がかり”についても、病気がどのように進むのか、仕事に復帰できるのか、自分が休業すれば家族はどうなるのかなど数えると切りがないほどあります。また、難治性のがんを告知するとき、治療中のつらい症状の際に経済的なことや家族の問題に直面したとき、末期になった場合など、様々な場面に適切に対応できるかが問題です。

 今回の研修会には、県内の病院から17名の医師が参加しました。それぞれの専門は初期研修医から始まって消化器内科・外科、呼吸器内科・外科、放射線科、循環器内科、耳鼻科、皮膚科など多科にわたっていました。講義の後には具体的な事例が提示され、各医師が3~4名ずつに分かれ、グループ毎のワークショップやロールプレイが行われました。各グループには実際に日々患者さんと接している看護師さんや薬剤師さんがアドバイザーとして加わってくれました。

 いくつかの症例が提示されましたが、一番困ったのは48歳の男性の例でした。部長職で仕事はバリバリしている、高校生や中学生の子供がいる、田舎には父母が2人暮らし。検診で肺に異常影を指摘され、総合病院で手術不能の進行がんと判明し、楽観視している患者さんにこの結果をいかに伝えるかという設定でした。医師役の者は相手の気持ちを受け止め、今後の気がかりを探り、一方的にならず、理解を示しながら一緒に病気と闘っていこうとするコミュニケーション術を学びました。患者役になった若い医師からは、「初めて患者さんの気持ちが少し理解できたような気がする」と述べていました。

 研修会で学べたこととして、「多くの病気には治し切ることをめざす治療には限界があること。そうした時には、医療技術だけでは対処の仕方に無理がある。患者さんを身体の故障としてだけ扱うのでなく、仕事・経済・家庭問題を含む社会的苦痛をもった人として、不安・孤独・怒りなどの精神的苦痛をもった人として、死の恐怖と闘い人生の意味を問うている人として接することが大切である」ということでした。当院の理念の「健康と尊厳を守る」ことは大変だけれども医療を行う者にとって常に目指す指針でもあることも痛感しました。

2015年06月01日「熊野古道ウォークを楽しみました」

 今年の連休の前半は好天に恵まれ、私は念願の熊野古道ウォーキングに出かけました。熊野は日本書記にも登場する信仰の聖地です。江戸時代には伊勢と並び、庶民が一生に一度は参詣をしたいと思う憧れの旅行地で、「蟻の熊野詣」と言われるほど多くの人達が参詣しました。聖地の熊野大社本宮へと辿る道は5つありますが、今回は最もポピュラーな中辺路(なかへち)を選びました。中辺路は田辺から熊野本宮に向かう山間道です。

 5月1日、5時半過ぎの和歌山港行きのフェリーで出発しました。フェリーの中で高野山に行くという知人のご夫婦にお会いしました。彼らも多忙の日々のひと時を信仰の地に求めていると話しておられました。電車を乗り継いで10時過ぎには田辺から熊野本宮行きの路線バスに乗り込みました。中辺路を含めた熊野道には「王子(おうじ)」と呼ばれる修験道行者が祀った熊野本宮大社に対する支社(神社)が多くあります。この王子が熊野古道の一里塚のような役目を果たしています。私は路線バスを乗り継ぎ、王子間をスポット的に歩くことにしました。

 まず牛馬童子口でバスを降り、茶屋で昔ながらの弁当を買い求め、山道で休憩時に食べました。高菜の浅漬けの葉でくるんだおにぎり(めはりずし)が3個と沢庵、焼き塩サバが入っていました。汗をかいた体にはとても美味しく感じ、あっという間にぺろりと完食しましたが、すごい塩分量だろうなと少し心配しました。

 近露王子は田辺と熊野本宮のほぼ中間にある最も古い王子の一つと言われています。この周辺の集落は昔、熊野詣の人達が利用した宿場町の面影がよく残っていました。バス停付近にはどこにでもありそうな家が民宿の看板を掲げています。次回はこのような宿に泊まりたいと思いました。

 うっそうとした樹木の下で木の根が張った山道を、前にも後にも誰もいなく一人で歩くことが半時間くらいありました。200~300年前にタイムスリップした感覚になり、当時の人がこの道をどんな気持ちで歩いていたのだろうと考えました。病気の人は快癒を願い、先に逝った家族の冥福を祈り、ある人は現在の平穏な生活が続くことを、別の人はここまで生きられたことに感謝したのだろうかと考えました。自分の心と向き合うことができた時間でもありました。

 熊野古道は昔の面影を残しながら歩きやすいようによく整備されていました。世界遺産に登録され、訪れる人たちが激増し、古い石畳や石段が荒れたそうです。近年は年間2千人を超えるボランティアの人たちが古道ウォークを楽しみながらリュックで土を運び維持、修復活動していると新聞で後日知りました。私も次回は是非ボランティアに参加したいと思っています。

 熊野本宮に参った後、川湯温泉で泊まりました。川底から湧きだす温泉と川の水が混ざり合い程よい湯加減になるとのことで、川の水量が少ない冬場は「仙人風呂」と名付けた巨大な無料露天風呂がオープンするそうです。私が訪れた日も川辺でキャンプを楽しんでいる人達は川に穴を掘り、自分だけの温泉を作って楽しんでいました。私は宿専用の川の中にある露天風呂(男女混浴)を楽しみました。こんな良い温泉ですが、不満に思ったことが一つあります。一人旅で宿泊可能な宿がほとんどないことです。今回のように幸運にも泊まれたとしても二人以上の人達に比べて非常に割高な料金がかかります。連休の稼ぎ時に一人宿泊は採算が取れないかもしれませんが、高齢社会で一人旅を楽しむ人達も多くなるので、良い工夫があればと感じました。

 翌日は熊野本宮から再び路線バスに乗り、深緑に映えた熊野川を横目に見ながら紀伊勝浦駅を経て熊野那智大社、那智の滝を見学して帰ってきました。

2015年05月07日「全ての真偽を自分の目で確かめよう」

 3月から4月にかけて研修修了式や新規採用職員の歓迎会が行われ、私も巣立っていく若人や夢に燃えて入職してきた人達に励ましの言葉を送りました。各大学のトップ達も卒業式や入学式で色々な視点から若者たちに期待を込めたあいさつを行いました。なかでも東京大学教養学部学位伝達式で石井洋二郎学部長の式辞は、普段私が言っていることを強調したものであり、大変興味を引かれました。

 彼は最初に、大河内一男元東京大学総長が東京オリンピック開催年に卒業式で語ったとされる有名な言葉「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」を引き合いに出しました。そして、この発言をめぐっては色々な誤解や間違いが積み重なっていることを指摘しています。

 第一の間違いは、この言葉が大河内元総長が考えた言葉ではなく、英国の哲学者ジョン・スチュアート・ミルの≪功利主義論≫という論文からの借用であることです。元総長の式辞の原稿には昔J・S・ミルが言ったと書かれています。第二の間違いは、もともと≪功利主義論≫の中には「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい」と書かれ、元総長の言葉とはかなりかけ離れたものであることです。石井学部長は、これは「資料の恣意的な改竄」と言われても仕方がないケースであると断言しています。さらに第三の間違いは、元総長は卒業式ではこの部分を読み飛ばして、実際には言っていないことです。草稿がマスコミに出回って報道され、言っていないことが言ったことになってしまったのが真相のようだと学部長は述べています。

 このように元総長の有名な語り伝えには、三つの間違いがあり、主語「大河内元総長は」が違い、目的語「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」も不正確な引用であり、「言った」という動詞も事実ではなかったということです。石井学部長はこうした経緯を述べ、「あらゆることを疑い、情報の真偽を自分の目で確認すること」、「一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証すること」、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず「教養」であると締めくくっています。

 私は医療人にとって、物事を常に自分の目で確かめ、検証する習慣こそが診療の基本であると、常日頃研修医達に教えています。いくら優秀な先輩医師の診断で参考にすることは良いことであっても、鵜呑みにしてはいけません。患者さんから自分で聞き、患者さんに触れ、自分の頭で考え最終的に判断することが基本であり、最重要なことなのです。教科書や論文を読んでも、日頃自分が診療で感じていることに合致するのか、本当に正しいことなのか、常に疑問を持ち、検証することが良医への近道と研修医達に話しています。

2015年04月01日「片岡善彦名誉院長、瑞宝小綬章おめでとうございます」

 昨年秋の叙勲で片岡善彦名誉院長が瑞宝小綬章を受勲されました。この章は公共的な業務に長年にわたり従事し、功労を積み重ね、成績を挙げた者に与えられるものです。3月7日、そのお祝いの会が催されました。職員を代表して祝辞を述べさせて頂きましたので、その内容を紹介します。

祝辞

 今日はこういう晴れがましい席で、義理や恩のある片岡先生について語れ、お祝いを述べることができ、また久しぶりに奥様にもお目にかかることができ、私にとって大変光栄なことと思っています。

 先ほどから、日赤支部長でもあります飯泉知事、濱田小松島市長、川島徳島県医師会長から自分の恩師を誉めて戴いていますが、こういう時、私がどうふるまうかは難しいものです。「そうだ、そうだ、その通り」とうなづくのは、なにか自慢しているみたいで、はしたないような気がするし、かといって「いいえ、とんでもない」と謙遜するのもおかしい。そういうわけで、ちょっと困りながら、しかしもちろん、内心非常に喜んで、やはり見る人はちゃんと見ているのだなあと 感心しながらお話を聞いていました。

 私は徳島赤十字病院にとっての先生について話させていただきます。片岡先生はいろいろなものを創り出しました。並べてみます。医師としては、①それまで心臓血管外科しかなかった当院に私たち循環器内科医を大学の講座の垣根を越えて招へいしてくださったこと。昭和55年でした。その第一期生が私と、現在大神子病院におられる相原令先生、善通寺市で開業されている岩野建造先生です。②同時に心臓血管外科、循環器内科の垣根を取り払って循環器科という同一の診療科を作り上げたこと。全国的にも画期的なことでした。③また、先生は多くの外科手術を手掛け、「心臓病、とくに冠動脈疾患の小松島日赤」の名を全国に広めたこと、④さらにちゃんと後継者を育成し、具体的には今日出席している福村好晃部長達ですが、徳島赤十字病院の心臓血管外科を大きな樹にして下さったこと、などです。

 平成9年に病院長になられてからは、病院経営者として本当にたくさんの改革をされました。これも並べてみます。①まず、病院名を「小松島赤十字病院」から「徳島赤十字病院」に変えました。平成13年のことでした。先輩方の中には少し抵抗もあったと聞いていますが、全国に通用する病院名となりました。②平成18年には旧病院を新築移転させ、同時に病床を450床から405床に縮小し、より機能的な病院としました。③同時に大胆な診療の改革を行いました。在院日数の短縮を図り、急性期に特化したこと。それを行うために外来を縮小し、入院中心の診療にし、病診連携を強化したこと。職員には経営の分かりやすい目安具体的には新入院患者数と平均在院日数を設け、スタッフに周知しました。④医療評価機構やISOなど外部評価を積極的に取り入れ、評価に耐えうる病院であるかを絶えずチェックしたこと、他にも数えればきりがないほど多くの改革がありますが、これらは全て日本の医療が将来どのように進んで行くかを見通した先見の明のなすものでした。

 教育の面でもその独創性をいかんなく発揮されました。中でも特筆すべきは、平成14年に臨床研修看護師制度を今日ご出席の水口艶子前看護部長と一緒に立ち上げたことです。この制度がその後看護部の努力もあって軌道に乗り、全国的に有名になり、当院には全国から看護師の応募が来るようになりました。看護師の質が格段に向上したことは言うに及びません。また、平成16年に新医師臨床研修制度が始まると、独自の研修プログラムを作成し、以後毎年ほぼフルマッチの研修医を全国から集めています。彼らは現在、中堅医師、看護師となり、病院の発展に大いに寄与しています。

 病院長としての私は経営策を思案しているときに、「待てよ、片岡先生ならどうするだろう、先生の上を行くアイデアはないだろうか?」と考えます。つまり、私はそれほど先生の影響を受けているということです。これからも先生が設置された軌道を発展させていきたいと考えています。色々ご助言頂けたら幸いです。

 最後に、徳島の医療のために、また県民が良い医療を受けられる幸せのためにも、お酒はほどほどにして下さい(笑)と野暮なお願いをして終わりたいと思います。

 本日は本当におめでとうございます。

院長プロフィール
ひあさ・よしかず
ひあさ・よしかず
1973年鳥取大学医学部卒。同大学付属病院にて臨床研修後、徳島大学大学院卒。北九州市小倉記念病院循環器科医長を経て、87年小松島赤十字病院(現・徳島赤十字病院)第三循環器科部長、2002年副院長、2011年より院長。医学博士。日本のカテーテル風船治療の草分け的存在である。