院長ブログ
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患者さんの健康と尊厳を守る医療を実践します
皆さまこんにちは。院長の日浅芳一(ひあさよしかず)です。職員の方や一般の方々に徳島赤十字病院を少しでも身近に感じていただきたいと考え、「院長ブログ」をホームページに加えました。拙い文と思いますが多くの方が目を通して下さることを願っています。
徳島赤十字病院
院長 日浅 芳一

2017年02月01日「けれどもほんたうのさいはひは一體(いったい)なんだらう」

 先月68歳の誕生日を迎えました。年齢のせいもあるのか、若いときにはなかった様々なことに思いを巡らせます。歩んできた人生について、あるいは幸せについてなどです。

 スイスの深層心理学者カール・ユングは人間の幸福の基礎的な5要素*について述べています。

 最初の要素は、心身ともに健康であること。これは誰もが認めることだと思います。私の場合、持病の坐骨神経痛が時に長時間の座位や車の運転を困難にすることはありますが、食欲もあり夜はよく眠れています。

 第二の要素は、結婚が順調で家族、友達と良い関係であることです。妻には6年前先立たれましたが、娘たちは健康でそれぞれ良い家庭を築いており、彼女たちの伴侶とも良好な関係を築けていると思っています。気さくな友達も何人かいます。なかでも貴重なのは、仕事とは直接関係のない友がいることです。利害関係のない真に率直な話ができます。

 第三の要素は、芸術や自然に対して美しさを感じる能力があることです。一般的に言われている芸術(絵画、書道、音楽、舞台等)についての造詣や興味は、私は持ち合わせていません。自然の美しさを感じることはあっても、それで心が打ち震えたといった経験もありません。しかし、旅先で古代遺跡に触れた時、例えば去年訪れたアンコールワット遺跡などでは、これを作った先人の偉大さに心底感動しました。

 第四の要素は、程よい生活水準と満足すべき仕事があることです。幸いこれまで「お金に困って苦労した」と振り返るような経験をせずに過ごしてこられました。「満足すべき仕事」という要素について考える時、以前、友人が話してくれたことを思い出しました。彼は多忙を極めた職場から時間的余裕のある職場へと転勤となった際、朝目覚めた時にまず「今日は何をして時間を潰そうか」と考えなければならなかったことは本当に辛かったと話していました。おかげさまで私にはまだやるべき多くの仕事があり、その仕事に満足と生きがいを感じています。もし人生をもう一度やり直すチャンスがあったとしても、再び医師の仕事を選ぶと思えるほど、この仕事に生きがいを感じています。

 第五の要素は、人生の変化に対応できる、哲学的あるいは宗教的な視点を持っていることです。これはおそらく生活の中に宗教が深く入り込んだ欧州の考えだと思います。私は無宗教ですが、本や映画、人との付き合いを通して得た先人の考えや知恵を自分のものにすることによって、人生の変化に対応していけるのではないかと思っています。

 この5つの要素の重要性は人により、年齢により重みが異なると思いますし、5要素全てを満たしているから幸福だとも限りません。逆にいずれか欠けていたとしても幸せを感じる事ができると思います。正しいスケールとはいえないまでも、こうして自分自身を客観視すると、漠然とではありますが幸せだと感じます。

 「けれどもほんたうのさいはひは一體なんだらう(けれども本当の幸いはいったいなんだろう)」これは若くして亡くなった宮沢賢治が死の間際まで何度も推敲を繰り返したと言われている「銀河鉄道の夜」の一節です。彼も人生や幸せについて思考していたのではないでしょうか?

*参考文献:C.G.Jung Speaking(Gordon Young, 1960)

2017年01月01日「イクボス宣言」をします

新年おめでとうございます。
皆さまにはお元気で新しい年を迎えられたことと思います。
今年もよろしくお願いいたします。

院長 日浅芳一

 昨年10月、釧路で開催された第70回日本赤十字社病院長連盟総会で私たちは次のような「イクボス宣言」を採択しました。

日本赤十字社病院長連盟イクボス宣言
私たち赤十字病院グループの院長はスタッフの声に耳を傾け、継続的にキャリアを積んでいける多様性のある職域環境を整備するようワーク・ライフ・マネジメントに努力します

 全国の赤十字病院でも女性医師が増加しています。当院でも医師146人中48人(33%)が女性医師です。彼女たちが十分に力を発揮するためには、次のような問題を改善していく必要があります。①管理職への登用が少ない、②保育支援が不十分である、③有休、産休、育児休業、介護休業の取得が不十分である、④休業時の代替が十分できていない、⑤働き方の多様性が限られているなどです。このような問題に対処するための職場環境を整備することが今後の医師不足の解消や安全で質の高い医療を提供することに繋がると考えています。そのために、配慮する側・される側の意見を十分聞き、双方の立場を考えつつ全スタッフが能力を十分発揮し活躍できる職場環境の整備を進めることが院長としての責務だと考えています。

 当院の現況を振り返ってみますと、診療部長以上の管理職に占める女性医師の割合は30名中4名(副院長1名を含む)13%で決して高いとはいえません。一部夜間保育を含む院内保育所はあるものの病児保育はできていない状況です。産休は取得できているものの、育児休業や介護休業は不十分です。夫婦共働きしている職員も多いので男性の育児休業を勧奨しています。もはや女性だけが育児休業をとる時代ではありません。一般の保育施設でも男性保育士が増えている昨今、男性が育児に関わることが自然なことであるという理解が拡がれば、子供が急な病気になった時など「帰らせて」、「帰っていいよ」と気軽に言いあえる雰囲気ができるのではと考えます。こうした環境で育った次の世代の子供たちが親になった時には、より柔軟な働き方が選択でき、性別に関わらず能力が発揮できる社会になればと願っています。
 休業時の代替については、少ない戦力を補充しあうか、徳島大学医局にパート医の派遣をお願いする以外に方法はありません。働き方の多様性については、育児中の女性医師の当直免除、時間外勤務をさせないことにしています。

 以上、女性医師について述べましたが、看護師、医療スタッフ、事務職員にしても、当院は女性の占める割合が圧倒的です。全職員のワーク・ライフ・バランスを大事にすることが組織の活性化に繋がることはいうまでもありません。また、女性に限らず男性でも親の介護に悩んだり、地域活動などのボランティアに生きがいを感じたりしている人も少なくありません。「隗より始めよ」とのことわざ通り、まず私がイクボス宣言し、各部門の長に広めたいと考えています。2017年は、優秀な女性職員が育児や介護で辞めざるを得ないような状況を作らず、全職員がモチベーション高く働き続けることができる職場環境を作る元年にしたいと思っています。

 ※「イクボス」とは、男性従業員(部下)などの育児参加に理解のある経営者(上司)のこと。子育てに積極的に関わる男性=イクメンを職場で支援するために、部下の育児休業取得を促すなど、仕事と育児を両立しやすい環境整備に努めるリーダーをイクボスと呼ぶ。

2016年12月01日「診察の医師の笑顔が薬です」~最近の川柳から~

 以前にもこのブログで川柳に興味を持っていることを書きました。川柳は①短いフレーズで急所を外さないモノの捉え方、②さりげないサラリと言ってのける句体、③五・七・五の17音の定型詩に込められたじわりと湧いてくる笑いや自然なユーモアが特徴です。毎日新聞は1面と3面に川柳を掲載し、私も毎朝目を通しています。最近、思わず感心したものを紹介します。

「レントゲン見る医者の顔じっと見る」1)

 癌の疑いがあると検診で指摘され、精密検査のために受診した患者さんかもしれません。レントゲンフィルムをみてもさっぱり理解できず、それよりもフィルムをみている医師の顔つきの方が気にかかります。悪いものであれば眉間にしわを寄せ難しい顔をするはず・・・と見つめているのでしょうか。

「一瞬に青空になる"異常なし"」2)

 ここ何日間、ひょっとすると何週間も最悪のことを考え思い悩んできた患者さん・・・仕事は続けられるのか、自分がいなくなれば家族はどうなるのかなど数えると切りがなく怖くて不安な日々が彼を苛みます。しかし、“異常なし”の一言で心は快晴、それまで無かった食欲が出、途端に空腹感を覚えます。私の専門領域に「ブルガダ症候群」という病気があります。日本やタイの若い男性に多く、不整脈による突然死を生じることがあります。特徴のある心電図異常があり、検診でよく似た所見で精密検査を指示されることがあります。インターネットで情報を知り、不安いっぱいの面持ちで受診する彼。私は結論から伝えます。「心配ないですよ。ブルガダではないです」。相手の顔がさっとほころぶのが分かります。

異常なし!

「シャイなのか患者(オレ)より画面見てる医者」3)

 電子カルテが一般的になりました。写真や検査結果は全て電子カルテの中。診察記事も打ちこまなくてはなりません。器械に向かいながら患者さんと話すことがどうしても多くなります。でも患者さんにすれば、きちんと向き合って話を聞いて欲しい、身体もちゃんと診察して欲しいと思うはずです。こうした時間を作るため、私は検査結果のカルテ記入を全ての診療が終わった後にすることにしています。

「診察の医師の笑顔が薬です」4)

 心身ともに傷つき病んでいる患者さんにとって、医師や看護師の優しい言葉や笑顔が最良のサプリメントであると思います。相手のことを思いやる態度や言葉が医療に携わる者には不可欠です。

引用元

1)毎日新聞 2016年10月22日 毎日川柳 名古屋 伊藤昌之
2)毎日新聞 2016年5月10日 近藤流健康川柳
3)毎日新聞 2016年11月21日 毎日川柳 東京 新橋裏通り
4)毎日新聞 2015年12月2日 近藤流健康川柳

2016年11月01日「熊本地震から学ぶもの ~日本赤十字社病院長連盟総会に出席して~」

 10月5日から3日間、北海道釧路市で日本赤十字社病院長連盟総会が開かれました。この会は、テーマごとに各病院長が各病院の問題点、それに対する改善策を発表するもので病院経営の上で大いに参考になります。今年も各病院長の奮闘ぶりが披露されました。熊本地震発災後の最初の開催にあたる今回は、震災に関するシンポジウムが開かれました。

日本赤十字社徳島県支部救護班第1班

 テーマは「今後の震災救護活動に向けて」。熊本地震救援活動の反省と今後予想される南海トラフ巨大地震に備えた取り組みが話し合われました。熊本赤十字病院長は、職員について「混雑しても、混乱はなく、迅速かつ臨機応変に対応できた」と述べました。職員一人ひとりが東日本大震災から多くを学び、マニュアル整備や多数傷病者受け入れ訓練を日頃から繰り返し行っていた成果だと言います。また、本社医療事業推進本部が中心となって「被災病院支援」を早期から展開してくれたことが一番嬉しかったと話しています。これは、当院はもちろん全国赤十字病院の医師や看護師、事務職員が「病院支援要員」として交代で熊本赤十字病院の診療業務等を手伝い、熊本赤十字病院の職員は地域医療と災害医療の役割を果たすものです。今後、赤十字グループ独自の「被災病院支援システム」を作ることが必要であると締めくくられました。

日本

 和歌山医療センターの発表では、南阿蘇の避難所で集団ノロウイルス感染が発生した際、手持ちの消毒剤がなく困っていたところ、自衛隊から大量の次亜塩素酸ナトリウムの提供を受け、感染拡大を抑制できた事例があげられました。一方、益城町では30に余る支援団体が各々独自に活動していました。同じことを何度も聞き取り調査されるストレスは、被災者が車中泊を選択する理由にもなったとも述べられました。これらのことから、南海トラフ巨大地震に備え「顔の見える横の連携を日頃から作っておくこと」「指揮命令系統の確立」を訴えました。当院同様、南海トラフ巨大地震により最も甚大な被害を受けるであろう高知赤十字病院からは、各地からの救援を受け入れる「受援計画」を作成していることが報告されました。移転を予定している新病院では、ヘリポートは屋上と敷地内駐車場の2か所に、大型車両60台を受け入れる駐車場の整備等を予定しているそうです。

 熊本赤十字病院長が語った「まさか自分の病院が直下型の地震を受けるとは思っていなかった。誰もが、いつも、被災するという意識を持っていることが大事だ」との言葉が頭に残りました。また、救援に派遣された安曇野赤十字病院の看護師さんが聞いた「赤い人たち(赤十字)がいてくれるだけで安心だわ。こげん嬉しいことはなかですよ」との被災者の言葉に赤十字の下で働く誇りと嬉しさを感じました。

この原稿を書き上げた直後の10月21日、14時7分に鳥取県中部を震源とするマグニチュード6.6の地震が発生しました。被災者の言葉「まさか自分たちが大地震に遭うとは思わなかった」に、日本が地震大国であることを思い知らされ、日頃の備えの重要性を改めて認識しました。

2016年10月01日「琵琶湖周辺に"兵どもの夢の跡"を訪ねて」

琵琶湖

 8月下旬の3日間、夏休みを利用し、戦国から安土・桃山時代に至る琵琶湖周辺の歴史街道を散策してきました。当時の琵琶湖周辺は東海道、中山道、北国街道が交わり政治・文化の中心である京都へ続く天下の要所でした。また、豊かな近江平野の中心であったため、多くの戦国大名がこの湖面を望む領地を切望したことと思います。彼らの思いを少しでも実感できたらと願い出かけました。

 最初に訪れたのは、姉川古戦場跡です。越前の朝倉義景を討とうと金ヶ崎まで進駐した織田信長が、妹婿・浅井長政の予期せぬ裏切りにより背後から攻められ、袋の鼠となりながらも九死に一生を得て反撃に出た戦いの場です。長浜市街から車で30分程の所ですが、道路標識もありません。ごく普通の川に橋がかかり、そのたもとに「姉川古戦場跡」の看板が立っているだけです。付近には「血原」「血川」といった激戦ぶりを窺わせる地名が残っているということですが、450年前、ここで旧来文化を守る人達(浅井・朝倉連合軍)と新興勢力の人達(織田・徳川連合軍)の存亡をかけた一大合戦が行われたとは信じられないほどのんびりした川原と稲田が広がっていました。

 次に訪れたのは姉川の戦いの3年後に滅亡させられた長井久政・長政が治めた小谷城跡です。この城は上杉謙信の春日山城(新潟県上越市)や尼子経久の月山富田城(島根県安来市)と並ぶ日本五大山城の一つです。秀吉が総攻撃を仕掛けた際、山上から矢を射られながらも急峻な崖を駆け上る兵士たちの苦労が小説等で描かれていますが、標高495mの小谷山から尾根にかけて築かれた、まさに難攻不落を実感できる城跡でした。私は中腹にある番所跡から本丸跡まで登りましたが、山腹でありながら、広い御馬屋敷曲輪、馬洗池、本丸曲輪等がうまく縦に並んで作られていました。城から琵琶湖が一望できる場所もあり、長政やお市の方がこの絶景をどのような思いで眺めていただろうかと思いを馳せました。

 その後、信長の後継を巡って秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳(しずがたけ)に上りました。標高421mの山ですが、山頂近くまでロープウェイがあり、今では昔の兵士たちの苦労を知ることなく登ることができます。この山は北国街道の出口にあたり、ここからも琵琶湖や余呉湖が見渡せます。勝家は武門一筋に生きてきた武将です。自分の部下と信じていた前田利家の戦線離脱により、互角であった戦いが勝家の大敗となり、越前・北ノ庄でお市の方とともに自害して果ててしまいます。以前、「項羽と劉邦」について書きましたが、私は項羽のような豪快で無骨な人間に惹かれます。この時代でも実直一途な勝家が好きですが、ここでも人心収攬、機略縦横な秀吉が天下の覇者の道を開いたのです。世の中の指導者にならんとすれば、人心掌握にたける資質が必要不可欠であったのだろうと、いろいろ考えさせられました。

この3つの戦跡は全て滋賀県長浜市にあります。車なら30分ほどで各地点に行くことができますが、当時は物理的にも心理的にも遠く長い道だったと思います。「近江を制する者は天下を制す」といわれた時代、北近江の琵琶湖畔で繰り広げられた戦国の人々の思いを少しだけ感じることができた夏休みでした。

2016年09月01日「阪田 章聖先生への哀悼のことば」

 平成28年8月12日、外科の阪田章聖先生が亡くなられました。

 阪田先生、あなたがこんなに早く逝かれるとは思ってもいませんでした。人生の価値とは長さではなく、どれだけ充実した生き方をしたかということかも知れません。気さくで優しい奥様や立派な社会人になられた子供さん達に恵まれ、患者さんからも慕われたあなたは最上の人生を送ったと私は思います。それでも67年は短すぎます。1か月前、病と果敢に闘っているあなたを浜松医大に見舞った時は「きっとまた病院で一緒に働ける」と確信して帰ってきたのです。それなのに別れは突然訪れました。本当に悔しく悲しい思いです。

 当院が小松島赤十字病院と名乗っていた頃にあなたとお会いして、もう33年の月日が経ちます。出会って間もない頃、私が診ていた70歳後半の重症弁膜症患者さんが腎臓血管腫に罹患し誰も手術を引き受けてくれず途方に暮れていた時に「いいよ、やってみる」と快く引き受けてくれたことは一番の思い出です。頼りになる医師だと思いました。その当時からの古い顔ぶれは、あなたと整形外科の成瀬章先生、私の3人くらいになり、最近は“同族”意識を感じていました。あなたが忙しく働いていると「体、大丈夫なんかいな」「いつまでも若くないんだから程々にせんと」など要らぬ心配をしていました。

 若い頃あなたはその気さくな性格から、上司の医師や部門長から「さかぼん」と呼ばれて可愛がられ、ベテラン医師になってからも部下に慕われていました。昨年初に思わぬ病気があなたを襲い、治療のため病院を空けることが多くなって、あなたの存在がいかに重要だったか改めて認識しました。透析部門はあなたに聞かなければ分からないことばかり、十数人いる外科医師のまとめ役もいなくなり困りました。大事な人というのは、普段はごく普通に存在し、居なくなって初めてその存在の大きさに唖然とするものですね。あなたはその典型的な人でした。

 私とあなたはほぼ同年代に生き、医学教育や徒弟制度が色濃く残る医局の中で医師として育ってきました。そのため何ごとも患者さんや病院のことが最優先でした。子供の教育や家庭のことは全て奥様任せだったと言っておられましたね。私も同様で子供達の出産に立ち会ったことさえない夫でした。これから時間ができれば、奥様の苦労に報いたいと思われていたことでしょう。心残りだったと思いますが、奥様はあなたと連れ添ったことを誇りに思っておられるでしょうし、子供さんもあなたの背を見て育ち、立派な外科医になられました。これこそが家族に十分尽くした証しであると思います。

 「人は2度死ぬ」と申します。1つは肉体的な死、もう1つは人々の記憶から消えるときです。私たちはあなたのことをずっと忘れません。どうぞ私たちの中で生き続けて下さい。本当にお世話になりました。

2016年08月01日「項羽か、劉邦か」

 以前、横山光輝著の漫画「三国志」(全30巻、潮漫画文庫)のことをブログに書きました。この「三国志」に負けず劣らず面白く、含蓄に富んだものが「項羽と劉邦」(全12巻、潮漫画文庫)です。これは紀元前90年代に司馬遷が著した「史記」の一部を、同じく横山光輝氏が漫画にしたものです。

 秦の暴政に耐えかねた農民が起こした反乱を契機に、秦漢交代期の項羽と劉邦の覇権争いが始まります。項羽は名門出身のエリ-ト、片や劉邦は夜盗の頭目。生い立ちから性格まで正反対の二人でした。反秦勢力の傀儡皇帝として祭り上げた懐王から「秦の都・咸陽を先に攻略したものを王とする」と宣言された二人は、秦軍と激闘を繰り返しながら南北両街道から咸陽に向かって進撃します。最強の軍団を率い、自らも勇猛が売り物の項羽は行く先々で殺戮を繰り返し進みます。一方、劉邦は軍師・張良や配下の者の進言に耳を傾けながら調略に重きを置き進みました。結局、咸陽を先に制圧したのは劉邦でした。

 項羽は、力に勝る自分を差し置いて劉邦が王になることが許せません。項羽の力を恐れた劉邦はその怒りを鎮めようと会見の座を開きました。その際、項羽の軍師・范増は「ここで劉邦を殺さねば後に大きな禍になる」と何度も忠告するのですが、プライドの高い項羽は劉邦やその参謀たちに言い包められ、その機会を逃がしてしまいました。情に負け将来の禍根を絶つ千載一遇の機会を逃すことへの警告として知られている「鴻門之会(こうもんのかい)」です。

 その後辺境の地に左遷された劉邦でしたが、名軍師・韓信を得て勢いを盛り返します。この韓信は、「韓信の股くぐり」や「背水の陣」の故事成語で有名です。前者は、若い頃町でならず者に“おれの股をくぐれ”と言いがかりをつけられた韓信が、将来の大望のために目の前の小さな侮りを忍び、屈辱に耐えながら股をくぐったという話です。戦前の日本の教科書に“臥薪嘗胆”の意味合いで多く引用されていました。後者は20万もの項羽軍とわずか3万の兵で対峙した韓信軍が、兵法の常識を破り、河を背にして布陣するという逃げ場のない状況をあえて作ることによって、兵士たちに決死の覚悟を奮い立たせ勝利したというものです。

 5年に及ぶ戦いは劉邦の勝利に終わります。垓下(がいか)に追い詰められ、漢軍に周囲を取り囲まれた項羽は、夜更けに四面を囲む漢軍が自分の国である楚の歌をうたうのを聞き、楚の兵たちが漢に降伏したと思い絶望しました。この状況から「四面楚歌」という現在でも頻繁に使われている故事成語が生まれました。この時、項羽の愛妾であった虞美人は足手まといにならぬために自殺しました。彼女を葬った墓に翌夏咲いた赤い花は“ひなげし”でしたが、“虞美人草”とも呼ばれています。

 劉邦は多謀善断で謀略を厭いませんでした。一方、項羽は自らの抜群の武力を頼みとし、戦略・戦術を顧みませんでした。私は、勇敢かつ戦上手で豪快な英雄・項羽の方に惹かれます。しかし、組織を率いる指導者としては、人をよく用い、部下の進言をよく聞き入れ、長期的な戦略を考えた劉邦が優れていると思います。その後、漢の高祖となった劉邦は400年余の長期にわたり継続した漢帝国の基礎を作りました。「歴史は勝者の手によって作られる」と言われます。勝者が正義とされるのが歴史というものかもしれませんが、「項羽と劉邦」を読むと「勝者は歴史をつくり、敗者は文学をつくる」という言葉こそ、歴史の本質ではないかと思うのです。

2016年07月01日「今思っている3つのこと ~仕事、旅、人生~」

仕事

 院長になって5年余が経ちました。就任時、新しい職についたからといって考え方や行動が劇的に変わることはないと思っていました。しかし、振り返ってみますと、自分なりの成長を続けていると感じますし、これからも進歩し続けねばと改めて思っています。

 そのために、謙虚に相手に感謝できるよう心がけています。ときどき「院長、今こうしているけど、こういう風に変えた方が良いよ」といったアドバイスをいただきます。耳に痛く感じることもしばしばありましたが、最近では忠告してくれること自体を非常にありがたく思えるようになりました。忠告してくれた人の立場を思うと、相当の勇気が必要であったはずです。それでもあえて進言してくれた人の思いを考えると、その言葉の重みもまた違って感じられます。

 こうした様々な経験を重ねるうちに、相手の立場に立ってものを考える習慣も身についてきたのではと自負しています。生身の人間ですから“この人とは合わない”と思うこともありますし、“なんて理不尽ことを言う人だ”と感じることもあります。しかし、合わないと思っている人に対しても、相手の長所や頑張っている点を見出し、“自分と違う考えだけど、こういう点は評価できるな”、“こういうこと言うにはそれなりの切迫した事情があるのだろうな”と自分の立場とは違った視点でみた場合はどうであるかを想像し、相手を理解するよう心掛けています。

 月曜日から金曜日まで働くと、体の中の燃料タンクが空っぽになったようなガス欠感覚に陥ります。若いときであれば週末一日休むとすぐに満タンにできましたが、最近はそうはいかなくなりました。そんなときの特効薬は気分転換、特に旅は私にとって超効果的です。歴史が好きなので歴史遺産をよく訪れます。京都、高野山や熊野古道、会津若松、桃山・鳥羽・伏見、丹後半島、中山道の宿場・・・今はさびれていても、ほんの数百年前まで多くの人達が生き生きと暮らしていたさまに思いを馳せることは楽しみの一つです。もし自分がその時代に生きていればこんなことをしていたかも、などと想像を膨らませるとワクワクします。

人生

 65歳を過ぎ高齢者と呼ばれる年になりました。両親や義父母を見送り、死は遠いものとは思っていませんでしたが、妻が5年前に亡くなってからはぐっと近く感じるようになりました。“忌み恐れるもの”であったものが、次第に“受容すべきもの”になりつつあります。天地は万物の逆旅です。それでも自分の何らかの良い部分が子孫に伝わり、何百年か先の世の中の何かの役に立っていればいいなあと考えたりします。

 しかし、その日が来るまで充実した人生を送りたいと考えています。自分の人生において一番の収穫は、医師として様々な人たちと交わって生きてこられたことです。病院での職務は自分の夢や目標を達成することでなく、現在はもちろんのこと、将来にわたって職員やその家族の生活を守ることであり、病院としての社会的な責任を果たすことだと実感しています。これからも現役の医師として前を向いて歩くつもりです。

2016年06月01日「真田昌幸や村上武吉に学ぶ "組織の中での生き方"」

 NHK大河ドラマ「真田丸」が面白いですね。私もファンの一人で、草刈正雄さん扮する真田昌幸の生き方に共鳴し、毎週日曜夜の放送を楽しみにしています。昌幸は、徳川、北条、上杉などの大名に囲まれた信濃の地で生き残りを懸け、相手はおろか味方まで翻弄し必死に戦います。しかし、時代の流れには勝てず、豊臣秀吉の命により、宿敵であった徳川家康配下の与力とならざるを得なくなります。屈辱的な仕打ちを受けながらも“真田”を守り抜こうする昌幸ですが、「わしはどこで間違ったのか」とつぶやく場面には思わず涙しました。誇り高き男として生きようとすれば時代がそれを許さず、家名を残そうとすれば力に屈せざるを得ない男の悲哀が伝わってきます。しかし、彼の“武士の誇り”は次男信繁(幸村)に、真田の家名は長男信幸によって引き継がれていきます。

 ほぼ同じ時代に、真田昌幸同様自らの信念に忠実に生きたのが、村上水軍の総大将・村上武吉です。村上水軍に関する史跡がしまなみ海道沿いある因島(いんのしま)、能島(のしま)、来島(くるしま)などの瀬戸内の島々に残っています。私も過日そこを訪れました。200トンを超える巨大な阿武船の模型や"上"の文字が書かれた上り旗など武吉の叱咤が聞こえてきそうな空間がそこにありました。

 村上武吉の面目躍如たる戦いは、2万もの大群を率いる陶晴賢(すえ はるかた)に対し、わずか3千5百の毛利元就軍に加勢して大勝利をおさめた“厳島合戦”と、石山本願寺に対する織田信長の水軍を大阪湾の木津川河口で大敗させた“第一次木津川口の戦い”と言えるでしょう。いずれも海で生きる自由を求め、筋道を通すことを選んだものでした。しかし、秀吉の登場により、彼を取り巻く環境は一変します。楽市・楽座を押し進め、通行の自由を政策とする秀吉は、帆別銭という通行料を取り立てていた武吉らに対しても海賊禁止令でその自由を取り上げようとしました。真田昌幸と同じく武吉にとっても秀吉は時代変化のそのものでした。秀吉に抗い続けた武吉は、結局配所となった島で79歳の生涯を終えます。

 その武吉と対照的な生き方をしたのが塩飽(しわく)水軍です。丸亀港から船で約30分のところにある本島(もとじま)に本拠地を置いた彼らは、いち早く秀吉の傘下に入り、九州攻めでも兵の輸送に貢献しました。その功績で1250石の自治領・自治権を与えられ、朱印状も授けられています。家康からも自治権を安堵され、朱印状を貰い幕末まで自治が続きました。しまなみ海道の帰りに本島を訪れ、4名の「人名(にんみょう)年寄」によって運営された塩飽勤番所跡や秀吉、家康からの朱印状、年寄3家の石塔あるいは咸臨丸に乗った水夫たちの名を刻んだ記念碑などで当時の繁栄を知ることができました。ちなみに、幕末に日本人自ら操縦する艦船で初めて太平洋を横断した咸臨丸には、勝海舟の下、乗り込んだ水夫50名のうち35名が塩飽出身者だったということです。

 真田昌幸や村上武吉の歩んだ道は、私たちに組織や変わりゆく時代の中でどのように生きるかを問いかけています。組織がなければ大きな仕事はできませんし、時代の流れに逆らってはうまく生きていけません。しかし、時にはこれらが個人の独創性や生きがいを潰すことにもなりかねません。時代の流れと信念の間で折り合いをつけつつ、最善の選択をする。若い人たちが生きがいを見出し、それを伸ばしていける組織(病院)にすることが私の仕事だと思っています。

本文は、城山三郎著「秀吉と武吉」新潮文庫を参考にしました。

2016年05月01日「被災された方々に寄り添いたい」

 "天災は忘れた頃にやってくる"と言われていますが、東日本大震災からまだ5年しか経たず、復興の途上だというのに熊本地震が発災しました。普段、私たち人間は地球を我が物と思って暮らしていますが、地球の表面のごく一部に住まわせてもらっている小さな存在だと気づかされます。大自然の力の前には無力だと感じますが、そんな私たちだからこそ助け合って明日への希望を繋げなければなりません。

 4月16日未明に本震が発生、私たちはDMAT(災害派遣医療チーム)の1チーム5名を直ちに招集、厚労省DMAT事務局からの派遣要請に応えメンバーは午前9時前に病院を出発しました。また、普段からこうした事態に備えて5班編成している医療救護班のうち、1班(医師3名、看護師5名、薬剤師1名、事務要員3名)を午前11時過ぎに3台の車両に分乗して送り出しました。

 彼らは所定の任務を終え、4月19日に全員無事帰院しました。中には卒後2年目の若い研修医2名が含まれており、「被災された方たちから『赤十字のマークをみると安心できる』と言われた」、「頼りにされて、医師になって良かったと思った」と話していました。普段の病院の中では経験できない多くの大切なことを学んでくれたと思っています。

 さて、今回の地震に先立つ本年3月10日、中年女性の声で当院の医療社会事業課に電話がありました。「5年前の3月中旬、宮古市山田高校体育館で徳島赤十字病院救護班の医師に擦過傷の処置(臀部傷の洗浄、縫合など)をしてもらったうえ、『大変だったでしょう』と優しく声をかけていただいた。津波に流されたショックで緊張していて涙さえ出てこなかったのに、その医師の優しさに触れてやっと泣くことができた。今もそのことを忘れず感謝している。できればその先生のお名前だけでも知りたい」とのお問い合わせでした。

 当時の記録を確認しますと、その女性は確かに3月20日、胸部打撲と全身擦過傷で受診していました。その時は当院から救護班第3班が出動しており、M医師が診療していました。M医師に確認したところ、「少しでもお役に立てたのであれば嬉しい限りです。僕自身が被災者の力強さに心を打たれたのを思い出しました」とのことでした。M医師の同意も得てその女性に名前を伝えると、女性から「あのときは本当にありがとうございました。遠い徳島から助けに来て下さって心から感謝しています」とのメッセージをいただきました。M医師にとってその言葉は人生の宝物になると思います。

 それにしても日本は台風、地震、洪水など、なんと災害の多い国なのでしょう。日本人の根気や忍耐力、自制力はこうした絶え間のない災害によって培われたものだという人もいます。私たちは今回の災害で亡くなられた方のご冥福を祈るとともに、今なお懸命に災害から立ち直ろうとしている人たちに寄り添って力になりたいと思っています。

2016年04月01日「新しく赤十字人となった皆さんへ」

 今年も81名の皆さんを新しく仲間に迎えることができました。皆さんを心から歓迎します。当院の理念は“私たちは断らない医療を実践し、皆さまの健康と尊厳をお守りします”です。急な病気など不安な状況で救急外来を訪れる患者さんやその家族の方々を、無条件に受け入れる。これこそが私たち赤十字人の基本原則のひとつである「人道」に通じるものです。皆さんを含め職員一丸となって、この理念を今後ますます充実・発展させていこうと考えています。

 さて、徳島は戦時下において「人道」を実践した地であることでも有名です。第一次世界大戦中に中国の青島(チンタオ)で俘虜となったドイツ兵が、大正6(1917)年から2年10か月間、鳴門市“坂東俘虜収容所”に約1000人収容されていました。俘虜収容所の所長・松江豊寿はドイツ兵俘虜を人道的に扱いました。当時、日本各地の俘虜収容所では強権的な管理が行われていましたが、松江豊寿は俘虜たちの自主性を重んじ、人間としての尊厳を守り、地域の人達との交流を促進するなどしたため、坂東俘虜収容所は俘虜たちから“ムスタ-・ラ-ガ-(模範収容所)”と呼ばれました。

 当時44歳の陸軍歩兵中佐であった松江豊寿が、俘虜を人道的に扱った背景には、会津藩士であった彼の父、松江久平の存在がありました。会津戦争で賊軍の汚名を着せられた会津藩士・久平は極貧の地である斗南に追いやられます。その後、やっとの思いで得た東京警視庁の職場においても“朝敵・賊軍の徒”の扱いを受ける等の苦難に満ちた人生を歩みました。その最中に誕生したのが豊寿でした。豊寿自身が韓国駐箚軍最高司令官付副官として、日本による韓国併合の種々の舞台裏に立ち会った際の “隣国の人々にかつて会津人が味わったのと同じ屈辱を与えてしまった”との悔いも影響していると思われます。彼は俘虜について「彼らも祖国のために戦ったのだから」とよく語っていたそうです。それは豊寿が敗者の痛みが分かる人間だったからこそ発せられた言葉だと思います。

 収容所閉所式で俘虜の代表が述べた答辞が「人道」とは何かを物語っています。「いよいよ、お別れの日がまいりました。かつてマツエ所長どのは、有縁無縁の話をされました。私たちはあなたという人と有縁の間柄になったことを衷心から感謝しております。あなたがこれまでに示された私たちに対する寛容と、博愛と、仁慈の精神を私たちは決して忘れないでしょうし、将来、なんらかの形において、私たちは私たちよりさらに不幸な人々へあなたの精神をそそごうとするでしょう。アレ・メンシュン・ジント・ブリュ-ダ-、四海みな兄弟なりという言葉を、私たちはあなたを思い出すとき、心に反復するでしょう。」

 松江豊寿が弱き者に対し、人道・博愛の精神で接した地で、彼の志を受け継ぐ仕事ができることを私たちは誇りに思っています。皆さんは今日から赤十字人となり、徳島赤十字病院の“家族”になりました。これからは家族皆で力を合わせ病める人、弱き人に寄り添い、“断らない医療を実践し、健康と尊厳をお守りする”診療を行っていきましょう!

※本文は、中村彰彦著「二つの山河」文春文庫を参考にしました。

院長プロフィール
ひあさ・よしかず
ひあさ・よしかず
1973年鳥取大学医学部卒。同大学付属病院にて臨床研修後、徳島大学大学院卒。北九州市小倉記念病院循環器科医長を経て、87年小松島赤十字病院(現・徳島赤十字病院)第三循環器科部長、2002年副院長、2011年より院長。医学博士。日本のカテーテル風船治療の草分け的存在である。