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患者さんの健康と尊厳を守る医療を実践します
皆さまこんにちは。院長の日浅芳一(ひあさよしかず)です。職員の方や一般の方々に徳島赤十字病院を少しでも身近に感じていただきたいと考え、「院長ブログ」をホームページに加えました。拙い文と思いますが多くの方が目を通して下さることを願っています。
徳島赤十字病院
院長 日浅 芳一

2017年09月01日「逞しく成長した研修医たち」

 今年も8月中旬の休日に研修医同窓会が徳島市内で開かれ、多くの研修修了者や研修中の医師が集いました。当院では平成16年4月の新医師臨床研修制度発足と同時に、11名の若き医師達が2年間の初期研修を開始しました。制度開始から14年、125人の研修医が巣立ち、現在24名が当院で研修中です。幸いなことに、これまで一人の脱落者もなく研修が続けられています。それは"頑張り屋さん"の研修医が集まってきてくれたお蔭だと思っています。

 研修医1期生のことは今でも鮮明に覚えています。特に高知大出身のTさん。当時、私はこの新医師臨床研修制度を契機に"自分たちの病院の医師は自分たちで育成し、将来彼らがこの病院の運営を担えるようにする"という夢を持っていました。そのため優秀な学生がマッチングに応募してくれるよう全力を尽くし、学生の勧誘に高知にも出かけました。高知大学からは2人が研修に参加してくれ、彼女はそのうちの1人でした。

 Tさんは婦人科志望で、将来は当院に残り医師として成長したいと話していました。しかし、私たちの力不足で大学医局との調整がつかず、結果的には県外に出ざるを得なくなりました。彼女の希望をかなえられなかったことは今でも私にとって大きな悔恨事です。何年か経ち(東日本大震災の翌年だと記憶しています)、Tさんの結婚披露宴に招かれました。Tさんが立派な婦人科医に成長していること、東日本の某病院に勤めており、被災者のためにもそこで頑張り続けるつもりであることを話してくれました。お母様に初めてお目にかかり「娘の豊かな人生のためなら一人暮らしでも寂しくない」と言われ、私の涙腺が少し緩んだことも記憶しています。

 現在当院では、当院で研修を終了した医師35人が活躍中です。小児科のS君、循環器内科のT君、消化器内科のK君は副部長になり、診療科の運営になくてはならない中心的な役割を果たしています。それぞれが自分の専門領域を確立し、学生や研修医達を教育し、できれば自分たちと一緒にこの病院を発展させていこうと働きかけをしてくれています。当院にとってはかけがえのない幹部職員に育ちつつあります。その他、M君は循環器専門医と糖尿病専門医を併せ持つ総合診療医として働いており、Tさん、Hさん、Aさん、Iさん、IWさん、Yさん達は育児をしながら頑張っています。

制度発足当時私が抱いていた夢は、ゆっくりではありますが、叶えられつつあります。病院職員皆が“研修医を育てよう”と協力し、研修医達がそれに応えて頑張った賜物だと思います。これからもこの歩みが着実に根付き、末永く続くことを願っています。

2017年08月01日「"坂の上の雲"を訪ねて」

 司馬遼太郎の傑作の一つに「坂の上の雲」があります。日本が近代国家に向かって羽ばたこうとしていた明治時代の日露戦争を舞台に、伊予・松山の秋山好古、秋山真之、正岡子規の3人の主人公の激動の人生が描かれています。司馬は「旅順における要塞との死闘は--(略)--もはや戦争というものではなかった。災害といっていいであろう」と書いています。実際に日露戦争の旅順攻囲戦では日本兵1万人以上が戦死、負傷者を含めると6万人もの兵が犠牲になっています。二百三高地は近代日本が越えなければならなかった『坂』であり、その『坂』の向こう、ロシアの旅順要塞を陥落した先には、大国ロシアを下すという希望の白い雲がたなびいていたのでしょうか。同じく旅順攻囲戦を描いた映画「二百三高地」(東映)の主題歌を歌ったさだまさしの「防人の詩(さきもりのうた)」はとても印象に残っています。一度は訪ねたいと思っていたその二百三高地へ、7月の3連休に旅をしてきました。

日露戦争特別展IIHPより引用

 大連は関西空港から二時間余、旅順には大連から車で約1時間で行くことができます。いつも思うことですが、歴史小説を読むとはるか遠くに感じる場所も、実際行ってみるとこんなに近いところかと驚きます。二百三高地は旅順港から数km入ったところにある丘陵です。もともと海抜205mあったそうでが、激しい砲撃戦で203mになりこの名がつけられました。中腹にある駐車場までは車で行けますが、そこからは徒歩で頂上まで登らねばなりませんでした。けっこうな坂道です。日露戦争当時は全くの禿山でしたが、今は木々が茂り、静寂の中、セミが盛んに鳴いていました。まさに"セミ時雨、兵(つわもの)どもは今どこに"の感でした。私は汗をかきつつ、好奇心に背中を押されて登ることができましたが、攻防当時は秋から初冬、寒さの中、脚気に悩まされ死の恐怖に耐えながら地面に張り付いていた若い兵士を思うと、胸が締め付けられました。

203高地頂上に立つ爾霊山
203高地頂上に立つ爾霊山

 頂上には乃木将軍が戦死した兵達のために砲弾の破片を集めて砲頭を型取った慰霊碑「爾霊山(読み:にれいさん。爾(なんじ)の霊の山、二〇三【に・れい・さん】の当て字でもある)」がありました。中国政府の解説文には「この爾霊山はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった」と辛辣な言葉で記されていました。同じところにはロシア軍が使った大砲や砲弾が昔ながらの原型で展示されていました。頂上広場の反対側には日本軍が旅順港奥深く潜んでいたロシアの旅順艦隊を砲撃した二十八糎榴弾砲(にじゅうはちせんちりゅうだんほう)の実物が置いてありました。よくこんな大きなものを運んできたものだと感心したり、呆れたりでした。

 二百三高地の頂上から旅順港を見下ろすと、平和でのどかな風景が広がっていました。100余年前、貧しい農村からかき集められた若い兵士たちがどのような気持ちで戦ったのだろうと思いを馳せました。司馬遼太郎は物語のあとがきで「のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつけて坂をのぼってゆくであろう」と書いています。坂を上りきったその先にあったものは何だったのでしょう。日本はその後、彼らの犠牲を省みもせず中国大陸の奥深く軍隊や資本を進めていきました。大連でみた旧ヤマトホテル、旧満鉄本社、旧横浜正金銀行等、中国の人達を支配せんとした遺物を見るにつけ、戦争の愚かさを感じた旅でした。

*日露戦争では25万人もの脚気患者がでて戦傷病死者4万余人のうち病死者が3万人を占め、病死者の多くは脚気心によるものだったとされています(日本心臓財団刊行物より)。

2017年07月01日「戦国武将と和菓子」

 私は歴史好きで、過去のブログでも何度か触れましたが、特に戦国時代の武将たちが何を考えどのような行動をしたか非常に興味があります。彼らが愛した山城に実際に上り、彼らが戦った古戦場に立つとき、自分がタイムスリップし、彼らに同化した気になります。史跡を訪ねると必ず武将が愛したとされる食べ物を目にします。私の大好物である和菓子を愛した戦国武将も多くいます。

 その筆頭は何と言っても豊臣秀吉です1)。彼が政権を掌握した頃は、長かった戦国時代が終わりに近づき、武士や庶民に祭り(祇園祭りもこの時代から始まりました)や花見(醍醐の花見が有名です)、茶や菓子を楽しむ余裕ができ始めた時代でもあります。秀吉の時代に作られた和菓子としては、北野大茶会(きたのだいさのえ、1587年)で供されたとされる麩焼煎餅(ふやきせんべい)や加茂みたらし団子、彼が名づけ親と言われている長五郎餅やうぐいす餅等、真意が定かでないものを含めれば数多くあります。しかし、その中でも私の舌が興味を持ったのは、秀吉が舌鼓みをうったとされる古代伏見羊羹です。「蒸し羊羹」しかなかった当時、寒天を使った今日の練羊羹が生み出されました。鮮やかな紅色の見た目から紅羊羹の別名もあります。その時代、駿河屋が作ったこの羊羹は、その後改良を重ね阿波の和三盆糖、丹波の糸寒天、備中の白小豆を材料に使い「虎屋の羊羹2)」と並ぶ名物になりました。ちなみに虎屋の羊羹にも阿波和三盆糖が使われています。徳島が誇るべき貴重な文化です。

 次にあげるのは利休十哲の一人とも言われる荒木村重です。彼は摂津国の小豪族の家に生まれ、主君であった池田家を乗っ取り、織田信長に仕え、足利義昭追放等の戦功を立てて信長に取り立てられていきます。村重が信長に初めて拝謁した時、信長は村重の胆力を試すため抜刀し高坏(たかつき)に載っていた饅頭を二つ三つ串刺しにし「我が寸志なり、食すべし」と目の前に突き出しました。座の一同が色を失う中、これを平然と頬張ろうとしたという、村重の豪胆さを示す逸話が知られています。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、この場面で村重役の田中哲司が好演していました。また、江戸時代の読み本「絵本太閤記」の錦絵としても有名です。饅頭が村重を引き立てました。しかし後に信長に謀反を起こし、居城有岡城を取り囲まれ、妻子や部下を捨て、名物茶器のみを携えて逃げます。本当に豪胆な人物であったのか私には疑問です。

 最後に明智光秀。本能寺で織田信長を討った数日後、京都の人々から祝賀の粽(ちまき)が献上されました。しかし光秀は、信頼を寄せていた娘の嫁ぎ先・細川家から無視され、あてにしていた援軍も集まらないため苛立ちを募らせていたのか、笹の葉の包みも取らずに粽を口に入れてしまいました。そこに人々は光秀の動揺を感じとり、また光秀の器量の小ささも見て、さっさと見限ったそうです。江戸時代の閑際筆記に書かれているそうですが、歴史は後世の勝者が作ると言われていますので真意は不明です。それはさて置いて、和菓子の食べ方でその人物の器量が推し測られたことが面白いと思いました。

 秀吉や信長、村重、光秀たち戦国武将が愛した和菓子は、改良を重ねられ今に伝わっています。また、彼らが引き立てた和菓子屋さんも伝統を守って、今も私たちに美味しいお菓子を提供してくれています。皆さんも武将や職人たちを偲びつつ和菓子を楽しんでみて下さい。

参考文献

1)京都の和菓子 http://kyoto-wagasi.com/history/hideyosi.html
2)虎屋文庫編「和菓子を愛した人たち」、東京:山川出版社2017

2017年06月01日「佐野常民ってどんな人?」

 日本赤十字社の前身の博愛社が1877年(明治10年)に創立され今年で140年になります。また、日本赤十字社徳島県支部は日本で最初に設立された6支部の1つで、1887年10月28日に発足し130年を迎えました。これを記念して様々な催しが開催されます。徳島県立近代美術館で展示されている「今に生きる『人道博愛の心』美術に見る日本赤十字社の歩み」もその一つで、私も先日鑑賞してきました。日本赤十字社に寄贈された日本美術界の巨匠たちの名画にも心を動かされましたが、私はやはり赤十字の先輩たちが歩んできた苦難の道を記録した絵画、刊行物やポスターに感動しました。なかでも日本赤十字社の基礎を大給恒(おぎゅうゆずる)とともに作った佐野常民に興味を持ちました。

 佐野常民に関しては、佐賀の七賢人のひとりであり、西南戦争の時に日本赤十字社の基礎となる博愛社を創立した人だという程度の知識しかありませんでした。先日、偶然に佐野常民を主人公にした文庫本と出合いました。高橋克彦著、火城(かじょう)―幕末廻天の鬼才・佐野常民―(文春文庫)です。物語は嘉永3年(1850年)、彼が佐野永寿(えいじゅ)と名乗り、江戸で蘭医・伊東玄朴の下で医業の修業をしていた時から始まります。そして文久元年(1861年)蒸気機関車製造命令が彼に降り、長崎に出かけるところで終わります。いわば彼の前半生の物語ですが、佐野の考え方や生き様が如何なく描かれています。

 物語の中で、幕末の名君の一人とされる第十代佐賀藩主・鍋島閑叟(かんそう=鍋島直正)に向かい、「藩のことも、武士であることもお忘れ下さい。たとえ幕府が潰れても日本という国は残ります。その時に国を支えるのは舎密(せいみ=Chemie【蘭】化学の意)に他なりません。――この国にたった一つ、遥か先を眺めて生きる藩があってもいいのではござりませんか。ひたすらその先を目指して――」と大砲よりも蒸気船や蒸気車が必要なことを訴えました。彼が蘭学を通じて語学、医学、化学、物理学などを理解しようとしたのも、必死で民間の頭脳集団(この中には後の東芝の前身を設立した“からくり儀右衛門”“東洋のエジソン”こと田中久重もいます)をスカウトしたのも、蒸気機関の国産化という理想のためでした。

 佐野常民の後半生も生き方にブレはありませんでした。慶応3年(1867年)、佐賀藩の一員として第二回パリ万国博に出席します。そこで出会ったのが赤十字国際委員会の展示館でした。敵味方の区別なく傷病兵を救護するという赤十字思想に共鳴し、日本にも同様の組織を作ろうと行動したのも、「高い理想と寛容な情操の持ち主」*であったからこそ可能であったといえます。また、激動の幕末という時代に佐野常民という傑物が活躍できたのは、藩主・鍋島閑叟が科学的な知見を重視し、財政危機にあっても教育には財を惜しまず「天下に先じて憂い、天下後れて楽しむ」上司であったからだともいえます。

 常民のもう一つの功績は、当時急激な西洋化により衰退の一途を辿っていた日本の伝統美術(浮世絵等)の保護をしたことです。明治12年(1879年)に後に日本美術協会となる龍池会を設立し、芸術家の救済や日本美術の海外流出を防ぎました。

 こうした佐野常民の生き方を改めて知り、私は赤十字の一員であることに強い誇りを感じました。「今に生きる『人道博愛の心』美術に見る日本赤十字社の歩み」は徳島県立近代美術館で6月11日まで開催されています。

*お雇い外人の見た近代日本、R・H ブラントン著、講談社学術文庫より引用

2017年05月01日「平和な時代のありがたさ」

開聞岳(指宿市観光協会HPより)

 3月の3連休を利用して陸軍特攻基地として有名な鹿児島県知覧町を訪れました。知覧町へは鹿児島市中心地からレンタカーを利用し、1時間余で行くことができます。知覧は“知覧茶”の産地としても有名で、火山大地を利用した茶畑が延々と広がっていました。薩摩富士の別名をもつ開聞岳(かいもんだけ)をバックにした景観は、ここから多くの若者が死地に飛び立っていったとは信じがたいほど、のどかな風景が広がっていました。また、町の中心部は“薩摩の小京都”と呼ばれ、多くの武家屋敷庭園があることでも知られています。江戸中期の面影そのままの屋敷や庭園があり、家人と思われる品の良い老婦人から説明を受けました。戦争中は特攻隊の若者と町の人達のささやかな交流があったと言われていますが、それが何となく実感できました。

 (知覧特攻平和会館HPより)

 記念館である知覧特攻平和会館は知覧町の中心部から少し外れた小高い丘の飛行場の跡地に作られています。私が訪れた時も多くの人が見学していました。年配者が多いだろうと予想していましたが、意外にも大勢の子供や若い人たちが真剣に展示物をみつめていました。1、000を超す特攻隊員の遺影や写真、遺書が展示されています。婚約者から送られたマフラーを身に付け出撃した穴澤大尉(当時23歳)の遺書の文末には「智恵子に会い度(た)い、話し度(た)い、無性に」とありました。婚約者の将来の幸せだけ祈りながら、自分に囚われず未来を生きてほしいとの熱い思いがしたためられた遺書でした。受け取った智恵子さんの想いも如何ばかりかと思う一方で、彼のように恋を経験した者は少なかったのでないかと思われるほど、写真にはまだあどけなさが残る少年の顔が多く、胸が締め付けられました。木原少尉(当時19歳)は母子家庭で育ててくれた母親に対し「今までに何等の孝養も捧げる事無く誠に申譯(もうしわけ)御座居ません。<中略>御母さん今後御躰大切に御暮し下さい」と書き残しています。親より先立つこと程の親不幸はないと当たり前のように思われる現在ですが、ほんの半世紀と少し前、私の両親や若い人たちの祖父母の時代は、国家の命令で若者の命が楯として使われていたこと、それに対して怒りや悲しみさえ表出できなかった時代があったことを忘れてはなりません。

 北朝鮮における有事の危険性について連日報道されています。外務省も韓国への滞在・渡航を予定している人やすでに滞在中の人に対して、最新の情報に注意するよう呼び掛けています。もし、朝鮮半島で戦争が再び起これば私たちの生活も一変してしまいます。医療も「断らない医療を実践する」どころの話ではなくなってきます。若者が戦争に巻き込まれる様な時代を二度と繰り返してはなりません。そのためには、平和は与えられるものでなく、自分たちで守らなくてはなりません。個人で考えてもどうにもならないことだと決して思わず、様々な事についてそれぞれが自分の頭で考え、声を上げねばならないと思うのです。

2017年04月01日「新しい仲間たちへ」

 新しく私たちの仲間になられた89人の皆さん!心から歓迎します。「私たちは断らない医療を実践し、みなさまの健康と尊厳をお守りします」の理念の下、今日から一緒に額に汗をして働き、病める人の役に立てる喜びを共に分かち合いましょう。

 新入職員の皆さんを見ていると自分が初めてこの病院に入職した日を思い出します。1975年(昭和50年)、私は学生や研修医時代を過ごした山陰から徳島に帰って大学院に入りました。国道バイパスがまだ完成していなかった当時、週に一度パート勤務していた阿南医師会中央病院(当時)への行き帰りに通り過ぎる旧小松島赤十字病院は、私にとって憧れの病院でした。所属していた医局の関係上、当院に勤めることは絶対不可能だろうと思っていましたが、神様はいるのですね。1980年、病院が新しく循環器科を作ることになり、後輩の医師と二人で赴任することとなりました。それから37年経ちましたが、今でもこの病院が大好きですし、この病院で医師生活の殆どを過ごせたことを幸せに思っています。

 思い起こせば、赴任当初は厳しい毎日でした。外来も病棟も患者さんは数人しかいません。冠動脈造影検査についても、周囲からは「10人すれば1人は合併症で死ぬ」「ど~せ、人口の多い都会の病院には敵わない」など冷たい言葉でしか迎えられませんでした。過疎県の、しかも県庁所在地でもない地方都市で、どのようなことをすれば都市部の医師達と対等な仕事ができるようになるのだろうか。考え付いたのは、徹底した「顔の見える病診連携」でした。県内のあらゆる医院、病院に出かけ、“どんな患者さんでも24時間、365日診察する”、“入院が必要な患者さんは必ず受け入れる”、“患者さんは紹介元に必ずお返しする”旨を伝え、紹介していただけるようにお願いしました。お陰様で検査症例は順調に伸び、PCI(カテーテルを使った冠動脈形成術)を全国で最も早い段階で導入した施設のひとつとなりました。過疎というハンディキャップがあったからこそ、それを克服するためのアイデアを生み、実現させるべく人並み以上の努力をしたことで力をつけることができ、成果を得ることができたと思います。人生において、滅多にできない経験をさせていただけたことに感謝しています。

 最近、政府は「働き方改革」の一環として長時間労働の是正に力を入れています。心身の健康を損なうような働き方をするのは論外ですが、若いときにできるだけ緻密に働き、経験を多く積み重ねることが大事です。骨惜しみをしていては、優れた医療人・社会人には成り得ません。どんな職種でも、量を伴わない質の向上はないと思います。

 皆さんは若く、若さは大きな力です。考え込まずにまず一歩前に出てください。失敗経験なくして成功を修めることはできません。ひとつの成功を目指す時に最初は誰でも3つ4つの失敗をするものです。あきらめないでください。誰もが出来ないとあきらめていることの中に可能性が秘められていることを忘れないでください。「ど~せ、無理」は自分に対しても、他人に対しても絶対に禁句です。この言葉ほど可能性をなくするものはありません。初心を忘れず、素晴らしい医療人、日赤人となられることを祈念します。

院長プロフィール
ひあさ・よしかず
ひあさ・よしかず
1973年鳥取大学医学部卒。同大学付属病院にて臨床研修後、徳島大学大学院卒。北九州市小倉記念病院循環器科医長を経て、87年小松島赤十字病院(現・徳島赤十字病院)第三循環器科部長、2002年副院長、2011年より院長。医学博士。日本のカテーテル風船治療の草分け的存在である。